科学者から見た、日本の固体惑星探査の夜明け

2003年5月14日.はやぶさ初期運用中の相模原にて
矢野創 - ISAS/JAXA 小天体探査フォーラムファウンダー、はやぶさミッション理学スタッフ

  • Jan. 26 2016 改訂

画像:M-V ロケット5号機によって打ち上げられた MUSES-C 探査機は、2004年5月19日15時22分(日本時間)、東太平洋上空高度 3,700 km にて地球に再接近、イオンエンジンを運用して加速しながらのパワースイングバイを実施した。その際、航法・理学観測用の搭載カメラ3台(望遠1、広角2)および近赤外線分光器により、月や地球を撮影、装置の較正と性能評価試験を実施した。2005年09月に地球から約 3 億km 離れた位置で小惑星イトカワとランデブー、同11月イトカワに着陸。2007年04月、地球帰還に向けた本格巡航を開始した。

文部科学省宇宙科学研究所の工学実験探査機 MUSES-C「はやぶさ」は、日本時間2003年05月09日13時29分25秒に鹿児島県内之浦から、M-V-5 号機ロケットによって成功裏に打上げられました。この探査機は童話「星の王子さま」のふるさとのように小さな小惑星「1998 SF36」に行き、その表面から試料を地球に持ち帰る、世界初の「小惑星サンプルリターン」に挑戦します。また「はやぶさ」は我が国の「第20号科学衛星」にして、初めての固体惑星探査機です。以下では、今まで本ミッションに関わってきた一科学者の個人的視点から、現在の初期運用までを振り返ってみたいと思います。

私が大学生のとき初めて宇宙研の門を叩いてから、今年で早くも干支が一回りします。その間私は、LDEF、EuReCa、ハッブル宇宙望遠鏡、SFU、ミール宇宙ステーション、国際宇宙ステーション、スターダストと、様々な宇宙機に関わる科学研究をして参りました。しかし予算初年度から開発、製作、各種試験、打ち上げ、初期運用まで、搭載機器を担当するミッションのコアメンバーとして関わったのは、「はやぶさ」が最初です。

宇宙研では、「自分が担当する衛星や探査機が宇宙に飛んで、一人前」という風潮があります。昨日の打ち上げ約30分後に深宇宙探査網ゴールドストーン局から受けた通信から、自らが担当しているサンプラーホーンの伸展信号を端末上で確認した後、見学者の波もすっかり引いた夕方に、私は撤収作業のために射場の整備棟九階に上りました。そして M-V 一段目の噴射で黒ずんだ「からっぽ」のロケットランチャーに手を当てながら、「ようやく自分も、子どもの頃から夢見ていた宇宙へ踏み出したのだな」と実感しました。そしてこれから四年続くはやぶさの宇宙航海に、自分を含めた固体惑星科学の研究者が参加する機会を得たのだという幸福と、ここに至るまで私を導いて下さった数え切れない方々への感謝で胸がいっぱいになりました。

今回の M-V-5 号機は、25日まである打ち上げウィンドゥ初日での「Go」でした。ロケット組立オペレーションからフライトオペまで、延べ二ヶ月余り内之浦に勤務してきた私の目には、打上げ当日まで山積していた大小様々な課題を、ロケット班、地上班、探査機班が見事な連携を発揮して一つずつトラブルシュートし、いつものオペ練習のように淡々と打上げ初日に臨み、完璧に結果を出した事実そのものが、最も感動的でした。宇宙研と関連メーカーのチームワークの良さと、宇宙に賭けるプロ意識の高さの勝利だと思いました。さらに尊敬すべきは、宇宙研としては三年ぶりながら新宇宙機構統合前の最後の打ち上げとして、100 % の成功以外は許されなかったプレッシャーの中で、初日打上げを敢行した実験主任と、その後のはやぶさ運用に責任を持つ探査機主任の、勇気ある決断力と自らのチームへの信頼感です。

ロケット打ち上げの瞬間、私は 34 m アンテナ下にある探査機運用室中央卓の隅に座っていました。打上げ 4 分前に我々探査機班が「ALL READY」の応答をした後にできることは、管制室から流れる通信を聞きながら、射場やロケット各段に取り付けられたビデオ画像を映す数台のモニターを眺めるだけです。M-V ロケットが上昇していく様を肉眼で見たいのは山々ですが、その時点ではもはや記録班や光学観測班以外は全員、予め申告した安全な屋内か 4 km ほど離れた見学者席に配置されています。カウントゼロで一段目の映像が炎と煙に覆われると、数秒後に運用室は壁全体を揺らす衝撃と轟音に包まれました。そのときに部屋を見渡すと、探査機班のコアメンバーとメーカーのシステム担当者の最低人数だけがいるその空間は、まるで巨大な有人宇宙船の艦橋のようでした。二、三段目の搭載カメラが映す地球の輪郭や放出される継手をリアルタイムで見ていると、「ロケットが今懸命に、私達を宇宙に押し上げているのでは?」と錯覚しました。私の頭の中では CD「Lullaby of Muses」収録の曲「Lift Off!」が響いていました。そして、「ロケット打ち上げは、今後何度でも見られる。でも、自分が手がけた探査機を宇宙に送り出すこの部屋には、その資格のある者しか入れない。」と思うと、ノーズフェアリングが開いて探査機が宇宙空間に躍り出た瞬間を仲間と共に見届けられたことに、大きな幸福を感じました。

太陽電池パネルやサンプラーホーンが伸展し、姿勢データも取得できた頃、探査機への窒素パージや汚染管理をいつも私と一緒にやってくださっていた NTS 社ハンドリングチームの方々が、運用室までお祝いを言いに来てくれました。そして彼らは「プレゼント」と称して、約 12 時間前に整備棟で私が自ら外したサンプラーへの窒素パージラインの先端キャップを私の掌に乗せてくれました。いわば「MUSES-C のへその緒」です。その数時間後の記者会見で、実験班と宇宙研職員の間の公募から探査機が「はやぶさ」と命名されたと知り、私も 11 名の名付け親の一人になることができました。「はやぶさ」という愛称は、目標に向かって精確に飛び、上空をホバリングした後に一瞬で獲物を捕獲する姿が、本探査機にそっくりという理由からです。私はそれに加えて、内之浦の地元「薩摩隼人」と、探査機が小惑星に到着する2005年に 50 周年を迎える「ペンシルロケット」の生みの親・故糸川英夫先生が設計した名戦闘機「隼」の両方に通じるという意味も込めて考案しました。

そうしたせいか、第一可視開始直後に開かれた祝賀会の席上で私は、「探査機の打ち上げに立ち会うのは、子どもの誕生に立ち会う親に似ているのではないか?」と想像しました。四年間の宇宙の旅を始めたはやぶさの今後の運用では、打ち上げまでの期間にも増して様々な困難や挑戦が私達を待っていることでしょう。探査機を打ち上げなければそんな苦労をしなくて済むわけですが、やはり無事に宇宙へ旅立って欲しいと願う。その感覚は、将来多くの悲しみや苦しみも味わうはずの新しい生命なのに、なお力強く生まれてきて欲しいと子どもに願う親の気持ちに近いのかも知れません。

第三可視までは内之浦で初期運用を行い、第四可視から相模原に戻りました。現在も毎晩03時近くまで「はやぶさ」のシステムや搭載機器の健康状態を確認しながら、電気推進エンジンの点火を準備しています。今後は宇宙を旅するはやぶさと交信しながら、二年後の小惑星での科学観測・試料採取と、四年後のカプセル帰還を待つことになります。さっそく今月末には、はやぶさカプセル回収の貴重なリハーサルとして、USEF の地球周回無人実験プラットフォーム「USERS」カプセル帰還の地上光学観測班として、私は小笠原諸島に出張します。また、サンプルリターンによる科学研究の成否は、採集試料の注意深い分析にかかっており、地球環境からの汚染を防ぎながら初期分析し、さらに詳細な分析のために試料を提供できる保管体制を整えた地上施設と、熟練した分析研究者チームの存在が不可欠です。しかし「地球環境と反応していない宇宙物質のキュレーション施設」は、現在でもアポロ計画を指揮した NASA ジョンソン宇宙センターにしかありません。そこではやぶさミッションを機に、世界で二番目の宇宙物質キュレーション施設を日本に創設することが、次期小天体探査計画の実現と並んで、これからの私の仕事の柱になるでしょう。

第一可視の運用が終わった翌朝、宿泊先のコスモピア内之浦のラウンジに並んだ新聞は、全国紙も地方紙もすべて「小惑星探査機はやぶさ打上げ成功」を写真入りの一面トップ記事で報じていました。それを見て、宇宙研スタッフの一人が呟きました。「“小惑星”の文字が新聞の一面トップを飾ったのは、日本の歴史上初めてじゃないのか?」。そうかも知れません。人類の宇宙進出の歴史は昔からこうやって1ページずつ書かれてきて、今ようやく私達の世代にバトンが渡されたのだな、と私は考えました。来る06月には火星探査機「のぞみ」最後の地球スイングバイが控え、来年には Lunar-A が、二年後には SELENE が打ち上がります。そして宇宙研は、その後も金星や水星の探査計画を推進していきます。日本の固体惑星探査は、長く待ち望まれていた「夜明け」をついに迎えたのです。願わくは、二年後のはやぶさ小惑星到着、そして四年後の地球帰還に際しても、「太陽系」の記事が期待と夢を込めて人々に読まれていますように。